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バタイユの呪われた部分の光と影

## バタイユの呪われた部分の光と影

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バタイユにおいて、「呪われた部分」は、社会秩序の外側に追いやられた、理性や有用性の論理を超越した過剰なエネルギー、力、経験を指します。彼はこれを「浪費」という概念と結びつけ、太陽のエネルギーの消費活動に見られるように、生産性や有用性のために還元できない過剰なエネルギーの放出を重視しました。

バタイユは、この「呪われた部分」を、人間の経験の本質的な側面として捉え、抑圧や無視の対象とするのではなく、むしろ積極的に肯定しようとしました。彼は、エロティシズム、死、祭り、芸術などの領域において、この過剰なエネルギーが解放され、人間存在の限界を超越する可能性を見出しました。

例えば、エロティシズムは、身体の境界を溶かし、自己と他者の区別を曖昧にすることで、社会的に構築された秩序を一時的に転覆させる力を持つとされます。また、死は、生の有限性を突きつけることで、日常的な価値観を相対化し、より根源的な生の意味を問う契機となります。

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一方で、「呪われた部分」は、その過剰さゆえに、常に危険と隣り合わせでもあります。バタイユは、この過剰なエネルギーが、暴力、破壊、狂気といった負の側面に転化する可能性も認識していました。

例えば、ナチズムは、バタイユにとって、「呪われた部分」のエネルギーが、破壊的な方向に利用された典型的な例でした。また、現代社会における過剰な消費主義や環境破壊も、この「呪われた部分」の負の側面が顕在化した結果として解釈することができます。

バタイユは、「呪われた部分」を完全に制御することは不可能であるとしながらも、その危険性を認識し、倫理的な観点からその力と向き合うことの重要性を説きました。彼は、共同体的な儀式や祝祭などを通じて、この過剰なエネルギーを、破壊ではなく、創造的な方向へと転換していくことが可能であると示唆しています。

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