Skip to content Skip to footer

バタイユの「呪われた部分」の普遍性

## バタイユの「呪われた部分」の普遍性

###

「呪われた部分」とは何か

ジョルジュ・バタイユの主著の一つである『呪われた部分』は、1949年から1961年にかけて執筆され、生と死、理性と狂気、聖と俗といった二元論的な枠組みを超えて、人間の存在の根底にある過剰性と浪費の概念を探求した作品です。バタイユはこの著作において、人間の理性や有用性という原則から逸脱した、生産活動に還元できない過剰なエネルギーや活動を「呪われた部分」と呼びます。

###

「呪われた部分」の具体例

バタイユは、性や暴力、宗教的エクスタシー、芸術などを「呪われた部分」の具体的な manifestation として挙げます。これらの活動は、いずれも人間の生にとって必要不可欠なものではないにもかかわらず、強い快楽や陶酔、あるいは畏怖の念を伴いながら、人間を強く惹きつけるという点で共通しています。

例えば、性は生殖という生物学的な目的を超えた快楽をもたらし、暴力は破壊衝動を伴いながらも、時に高揚感や解放感をもたらします。また、宗教的エクスタシーは、日常的な意識状態を超越した神秘体験を可能にし、芸術は、実用性を超えた美的な感動を与えてくれます。

###

「呪われた部分」と社会の関係

バタイユは、「呪われた部分」は社会によって常に抑圧され、統制されようとしていると指摘します。社会は、秩序や安定を維持するために、個人の欲望や衝動を理性や道徳によって制御しようとするからです。その結果、「呪われた部分」は、社会的に容認された形で昇華されるか、あるいはタブーとされて、陰に追いやられることになります。

例えば、性は結婚という制度の中で制度化され、暴力は法によって禁じられています。また、宗教は教義や儀礼によって体系化され、芸術は商業主義やアカデミズムによって制約を受けます。

###

「呪われた部分」の普遍性

バタイユは、「呪われた部分」は、特定の文化や時代に限定されたものではなく、人間存在そのが抱え込んでいる根源的な過剰性として、あらゆる時代、あらゆる社会に普遍的に存在すると考えました。

彼は、太陽エネルギーの過剰という自然現象を例に挙げながら、人間社会もまた、常に過剰なエネルギーを抱えており、そのエネルギーを何らかの形で消費しなければならないと主張します。そして、「呪われた部分」は、まさにその過剰なエネルギーを浪費するための、人間社会にとって不可欠な要素であると結論づけます。

Amazonで購入する

Leave a comment

0.0/5