## バタイユの「ニーチェについて」とアートとの関係
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ニーチェにおける芸術の役割
バタイユは、「ニーチェについて」の中で、ニーチェの思想における芸術の重要性を強調しています。バタイユにとって、ニーチェは、理性や道徳といった伝統的な価値観を超越し、生の根源的な力、ディオニュソス的な衝動を肯定する思想家でした。そして、ニーチェにおいて、このディオニュソス的な衝動を最もよく体現しているのが芸術であるとバタイユは捉えていました。
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バタイユにおける「内的体験」としての芸術
バタイユは、ニーチェの思想を継承し、彼自身の芸術論を展開していきます。バタイユにとって、芸術は単なる美的体験ではなく、人間存在の根底にある「内的体験」と深く結びついていました。バタイユは、人間存在を規定する二つの原理として、「連続性」と「不連続性」を挙げます。「連続性」とは、理性、労働、生産といった社会的な秩序や体系を維持しようとする力であり、「不連続性」とは、それらの秩序や体系を破壊し、生の根源的なエネルギーを解放しようとする力です。
そして、バタイユによれば、芸術は、この「不連続性」の原理、すなわち、生の根源的なエネルギーの爆発、超越的な体験、 экスタシーを表現する手段となるのです。バタイユは、芸術作品を通して、我々は、日常的な意識の枠組みを超え、生の根源的な力、ディオニュソス的な衝動に触れることができると考えました。
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「消費」と「浪費」
バタイユは、芸術における「不連続性」の表現を、「消費」と「浪費」という概念を用いて説明しました。バタイユにとって、「消費」とは、単なる物質的な消費だけでなく、精神的なエネルギーの消費をも意味していました。そして、芸術作品は、この精神的なエネルギーを、生産的な活動ではなく、「浪費」という非生産的な形で消費することを可能にするものとして捉えられます。
バタイユは、芸術を通して、我々は、社会的な秩序や体系から解放され、生の根源的なエネルギーを「浪費」という形で爆発させることができると考えました。そして、この「浪費」を通してこそ、我々は、真の自由、生の歓喜を体験することができるのだとバタイユは主張したのです。