## ハートの法の概念の思想的背景
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オースティン批判と「義務」概念の再解釈
ハートの法概念は、彼の師であるJ.L.オースティンをはじめとする、19世紀イギリス法実証主義に対する批判を端緒としています。オースティンは法を「主権者の命令」と定義し、命令への服従は主権者からの制裁の恐れに基づくとしました。しかしハートはこの見解には、次のような問題点があると指摘しました。
* **すべての法規則が命令の形をとっているわけではない:** 例えば、契約の成立要件のように、人々の権利や義務を創出するための規則は、命令とは異なる性質を持ちます。
* **法の継続性と持続性を説明できない:** ある主権者が別の主権者に交代した場合、なぜ新しい主権者の命令が従われるべきなのか、オースティンの理論では説明できません。
* **国際法や憲法のように、主権者が存在しない、あるいは不明確な法現象を説明できない:** 国際法は国家間の合意に基づいて成立しますが、そこには命令を発する単一の主権者は存在しません。
これらの問題点を克服するために、ハートは法の概念を「規則」を中心として再構築しようと試みました。特に、彼は「義務」の概念に着目し、それを単なる制裁の恐れではなく、「規則に従うことが正当である」という内的観点から捉え直しました。
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一次規則と二次規則
ハートは、法体系は大きく分けて「一次規則」と「二次規則」の二種類の規則から構成されると考えました。
* **一次規則:** 人々の行動を直接に規律する規則。例えば、殺人や窃盗を禁じる刑法の規定や、契約の締結や履行に関する民法の規定などが該当します。
* **二次規則:** 一次規則を運用するための規則。具体的には、(1) 裁判手続きのように一次規則違反を認定し、裁くための「**裁定の規則**」、(2) 法律の制定や改正、廃止などを行うための「**変更の規則**」、そして (3) 法を識別するための「**承認の規則**」の三種類があります。
ハートは、二次規則の中でも特に「承認の規則」を重要視しました。この規則は、ある社会においてどの規則が法として有効であるかを最終的に決定するものであり、法体系の統一性と安定性を保障する機能を果たします。
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内部観点と社会規則
ハートは、法規則は単なる習慣や社会規範とは異なり、「義務」を伴うものであると主張しました。しかし、前述のように、彼はオースティン的な制裁の恐れだけをもって「義務」を説明することはできないと考えていました。
そこでハートは、規則に従う人々の「**内部観点**」という概念を導入しました。内部観点とは、規則を「従うべき標準」として受け入れ、その規則に違反した場合には批判が正当化されると考える態度を指します。法規則は、単に人々の外的な行動を規制するだけでなく、この内部観点を共有する人々の間で成り立っているという点に、その本質があると言えます。
このように、ハートは法を「社会規則」として捉えました。社会規則は、人々の行動を単に規則的にするだけでなく、その規則が「従うべき標準」として受け入れられているという点に特徴があります。法は、このような社会規則の中でも、特に「承認の規則」によって最終的に有効性が保障された規則の体系として理解することができます。