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ハイデガーの「存在と時間」の美

## ハイデガーの「存在と時間」の美

「存在と時間」における美の不在

まず注意すべきは、ハイデガー自身が「存在と時間」において美を主要なテーマとして扱っていない点です。彼は美的経験や芸術作品そのものよりも、むしろ「存在」の問いを深掘りすることに重点を置いていました。

現象学的記述と「開明」としての美

しかし、「存在と時間」には、美を間接的に理解するための重要な要素が含まれています。それは、ハイデガーが用いる現象学的記述と、そこから立ち現れる「開明」という概念です。

ハイデガーは、我々が日常的に存在を「忘却」している状態から脱却し、存在そのものを問い直すことを促します。この過程で重要な役割を果たすのが、現象学的記述です。これは、先入観や既存の解釈を排除し、事物そのものをありのままに記述することを目指す方法です。

現象学的記述を通して、我々はこれまで見過ごしていた存在の側面に気づかされ、世界が新たな光に照らし出されます。この、世界が「開明」される経験は、美的体験と深く結びついていると言えます。

「世界内存在」としての美的経験

さらに、「存在と時間」の中心概念である「世界内存在」も、美を理解する上で重要です。ハイデガーは、人間を抽象的な主体としてではなく、常に世界と関わりながら存在する「世界内存在」として捉えます。

美的経験もまた、世界との深い関わりの中で生じる出来事です。芸術作品との出会いを通して、我々は世界を新たな視点から見直し、存在の意味を問い直すことができます。

「真実」と美の接点

ハイデガーは、「存在と時間」の中で「真理」を「開明」と結びつけます。「開明」は、存在を覆い隠していたベールが剥がれ落ち、存在が真の姿を現すことを意味します。

美的経験においてもまた、作品を通して「真実」が立ち現れることがあります。それは、必ずしも概念的な知識としてではなく、世界や存在に対する深い洞察や共感として現れるものです。

このように、「存在と時間」は、美を直接的に論じてはいませんが、現象学的記述、「開明」、「世界内存在」、「真実」といった概念を通して、美的経験の本質に迫る視点を提供していると言えます。

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