## ニーチェの道徳の系譜の周辺
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執筆の背景
『道徳の系譜』は、1887年11月にニーチェによって出版されました。これは、それ以前の著作『善悪の彼岸』(1886年)の補足として構想され、当時のヨーロッパ社会に蔓延していた伝統的な道徳、特にキリスト教道徳に対する根本的な批判を展開しています。執筆の直接的なきっかけとしては、ニーチェが敬愛していた作曲家ワーグナーとの決裂、そして自身の健康状態の悪化などが挙げられます。
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構成と内容
本書は、三つの独立した論文から構成されています。
* 第一論文:「「善と悪」の彼岸にて」では、「善」と「悪」という概念の起源を、古代ギリシャ時代まで遡って考察しています。ニーチェは、本来「善」は力強く高貴な貴族の価値観であり、「悪」は弱く卑しい奴隷の価値観であったと主張します。しかし、ユダヤ教やキリスト教の登場によって、この力関係が逆転し、「弱者」の道徳が支配的になったと批判しています。
* 第二論文:「「罪責」、「良心の呵責」、「類縁の感情」の系譜について」では、キリスト教道徳における「罪」の概念を分析し、それが人間にどれほどの苦痛と抑圧をもたらしてきたかを明らかにしています。また、ニーチェは、禁欲主義や自己犠牲といった道徳観念も、この「罪責感」から生まれたものであると解釈しています。
* 第三論文:「禁欲主義的理想とは何か?」では、禁欲主義が、人生に対する否定的な態度であり、人間の生命力を衰退させるものであると批判しています。ニーチェは、禁欲主義の根底には、無力感や虚無感といったニヒリズムが潜んでいると指摘し、それに対抗するためには、力への意志に基づいた新しい価値観が必要であると主張しています。
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主な概念
『道徳の系譜』には、ニーチェの哲学を理解する上で重要な概念が多数登場します。
* **貴族道徳 / 奴隷道徳:** ニーチェは、道徳を「貴族道徳」と「奴隷道徳」の二つに分類します。貴族道徳は、力強く、肯定的で、能動的な生の肯定に基づく道徳であり、奴隷道徳は、弱く、否定的な、ルサンチマン(怨恨)に基づく道徳です。
* **ルサンチマン:** 弱者が強者に対して抱く、ねたみや恨みの感情。ニーチェは、キリスト教道徳は、このルサンチマンから生まれたと批判します。
* **力への意志:** 万物の根底にあるとニーチェが考える、生命力や創造力の根源。ニーチェは、力への意志こそが、ニヒリズムを克服し、新しい価値を創造する原動力になると考えました。
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影響
『道徳の系譜』は、ニーチェの主要な著作の一つとして、20世紀以降の思想界に大きな影響を与えました。特に、実存主義、ポスト構造主義、ポストモダニズムといった思想潮流に多大な影響を与えています。また、哲学以外の分野、例えば文学、心理学、社会学などにも大きな影響を与え、現代思想を理解する上で欠かせない古典となっています。