## ドストエフスキーの罪と罰に関連する歴史上の事件
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ナポレオン戦争と英雄主義の虚像
ドストエフスキーは『罪と罰』の執筆当時、ナポレオン戦争後のロシア社会に蔓延する一種の虚無主義と、一部の知識人たちの間で広まる新しい思想に直面していました。ナポレオン戦争は、それまでのヨーロッパの勢力図を塗り替え、ロシア社会にも大きな影響を与えました。戦争の英雄とされたナポレオンの姿は、一部の若者たちの間で熱狂的に受け入れられ、彼のような「偉大な人間」であれば、既存の道徳や法律を乗り越えても許されるという考え方が生まれました。
ラスコーリニコフもまた、ナポレオンに憧れる若者の一人でした。彼は、自分が「選ばれた人間」であると信じ、社会の悪を正すためには、どんな手段を使っても許されると考えていました。しかし、実際に老婆を殺害したことで、ラスコーリニコフは罪の意識と苦しみに苛まれることになります。
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1860年代のロシアにおける社会不安と貧困問題
『罪と罰』の舞台となる1860年代のサンクトペテルブルクは、急激な近代化と社会変革の渦中にありました。農奴解放令が出されたものの、都市部には仕事を求めて農村から人々が流入し、貧困と犯罪が蔓延していました。ラスコーリニコフもまた、貧困に苦しむ元大学生であり、彼の犯行の背景には、当時のロシア社会が抱える深刻な社会問題が色濃く反映されています。
物語に登場するスヴィドリガイロフやマルメラードフといった人物たちも、社会の底辺で生きる人々の苦悩を象徴しています。彼らは、貧困や絶望によって倫理観を歪められ、犯罪に手を染めてしまうこともありました。ドストエフスキーは、彼らを通して、当時のロシア社会が抱える闇の部分を克明に描き出しています。
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功利主義思想の台頭とドストエフスキーの批判
19世紀半ばのヨーロッパでは、功利主義が知識人の間で広く支持されていました。功利主義は、「最大多数の最大幸福」を道徳の基準とする考え方であり、社会全体の幸福を最大化するためには、一部の犠牲はやむを得ないと考えられていました。
ドストエフスキーは、この功利主義的な考え方に強い疑問を抱いていました。彼は、『罪と罰』の中で、ラスコーリニコフに功利主義的な考え方を代表させています。ラスコーリニコフは、金貸しの老婆を殺害することは、社会全体にとって有益であると rationalize しようとします。しかし、ドストエフスキーは、ラスコーリニコフの苦悩を通して、真の幸福は、個人の尊厳と道徳に基づいたものでなければならないと訴えかけています。