## ドゥオーキンの権利論の対極
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功利主義と権利
ドゥオーキンが鋭く批判の対象とした思想の一つに、功利主義があります。功利主義、特にベンサムに代表される古典的な功利主義は、「最大多数の最大幸福」を至上命題とし、社会全体の幸福の総和を最大化することを道徳の基準と据えます。
この功利主義の立場から見ると、個人の権利は決して絶対的なものではありません。社会全体の幸福を最大化するために、ある個人の権利が侵害されることが正当化される場合も想定されます。
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ジェレミー・ベンサムの思想
功利主義の代表的な論者であるジェレミー・ベンサムは、『道徳と立法の諸原理序説』の中で、人間の行動を支配するものは「快楽」と「苦痛」の二つの原理であると主張しました。そして、道徳や法律の基礎も、この快楽と苦痛の計算に基づくべきだと考えました。
ベンサムは、個人の権利を「ナンセンス」と呼び、自然権の概念を「馬鹿げた主張」として退けました。彼にとって、権利は社会によって創造されるものであり、社会全体の幸福に貢献しない権利は存在する意味を持ちません。
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対立の構図
ドゥオーキンは、このような功利主義的な思考様式を「外部的視点」と批判しました。これは、個人の権利を社会全体の幸福という外部的な基準から評価する考え方です。
一方、ドゥオーキンは「内的視点」の重要性を強調します。これは、個人の権利を、個人の尊厳や自律性といった内的価値に基づいて評価する考え方です。ドゥオーキンにとって、個人の権利は、社会全体の幸福のために犠牲にできるものではなく、個人の尊厳を守るための「切り札」としての重要性を持つのです。
このように、ドゥオーキンの権利論と、功利主義、特にベンサムに代表される古典的な功利主義は、個人の権利の捉え方において、鋭く対立する思想であると言えます。