## デカルトの省察の批評
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懐疑の射程
デカルトは、「われ思う、ゆえにわれあり」という確実な基礎から出発し、そこから神の完全性などを証明しようと試みました。しかし、彼の懐疑の射程については、様々な批判が向けられています。
例えば、デカルトは悪しき精霊によって感覚や数学的真理すらも欺かれているかもしれないと疑います。しかし、彼が「疑っている自分自身」を認識できるということは、既に何らかの思考能力や自我の存在を前提としているという指摘があります。つまり、徹底的な懐疑を貫徹するためには、自身の思考作用すらも疑わなければならず、デカルトはその点において不十分であるという批判です。
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循環論法の疑い
デカルトは、自身の存在証明の後、完全な神の観念から神の現実存在を導き、さらにその神の完全性に基づいて、我々の認識能力の信頼性を保証しようと試みました。しかし、この論理は循環論法の疑いを招きます。
なぜなら、神の完全性を理解するためには、そもそも我々の認識能力が信頼できるものであるという前提が必要となるからです。しかし、デカルトは神の完全性を証明した後に認識能力の信頼性を保証しており、論理展開の前提と結論が逆転しているという指摘があります。
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心身二元論の問題
デカルトは、精神と身体を全く異なる実体として捉える心身二元論を主張しました。精神は思考する非物質的な実体であり、身体は空間を占める物質的な実体であるとされます。しかし、この二つの実体がどのように相互作用するのかという問題が生じます。
精神は身体に影響を与え、身体もまた精神に影響を与えるように思われます。例えば、意志によって身体を動かすこともあれば、病気によって気分が落ち込むこともあります。しかし、異なる実体である精神と身体が、どのようにして互いに作用し合うのか、デカルトは明確な説明を与えていません。この心身問題に対して、後代の哲学者は様々な解決を試みることになります。