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デカルトの省察の対称性

## デカルトの省察の対称性

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第一部の対称性

「方法序説」でも触れられているように、デカルトは哲学体系を建築に喩え、その基礎の確実性を重視しました。「省察」におけるこのプロセスは、第一部の冒頭と末尾に見られる対称性によって強調されています。

第一部は、「私が真であると認めることを余儀なくされるような、ある種の古い意見」を検討することから始まります。この「古い意見」とは、感覚的経験に基づく常識的な世界観を指します。デカルトは、この世界観が「夢」の可能性によって揺らぐことを指摘し、確実な基礎を求めて懐疑を進めていきます。

そして第一部の最後では、感覚だけでなく、数学的真理さえも、「神よりもいっそう力のある、ある欺瞞者がいるかもしれない」という想定のもとで疑いにかけられます。このように、第一部は、常識的な世界観への疑念から始まり、より根源的な懐疑へと向かうことで、確実な基盤を求めるデカルトの姿勢を明確に示しています。

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第二部と第六部の対称性

「省察」の核心をなす第二部と第六部は、それぞれ「われ思う、ゆえにわれあり」という第一原理の発見と、その原理に基づく外界の認識の回復という、対照的なテーマを扱っています。

第二部では、あらゆるものを疑うという徹底的な懐疑の過程で、「私が騙されているとしても、私が何かであるということだけは絶対に確実である」という確固たる真理に到達します。これが有名な「われ思う、ゆえにわれあり」であり、デカルト哲学の出発点となります。

一方、第六部では、第二部で見出した「われ思う、ゆえにわれあり」という確実な基盤に基づき、外界の存在証明に挑戦します。デカルトは、神の存在証明を経て、感覚が神によって与えられたものである以上、それを用いて認識する外界もまた確実であると結論づけます。このように、第二部と第六部は、懐疑の深淵から確実性の回復へと至るデカルトの思考の軌跡を対称的に示しています。

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