ソフォクレスのアンティゴネに関連する歴史上の事件
紀元前441年の政治的背景とソフォクレス
ソフォクレスが『アンティゴネ』を執筆・上演したのは紀元前441年頃とされています。この時代、アテネはペルシャ戦争後のギリシャ世界で覇権を握り、ペリクレスの指導の下で民主政治と文化が大きく花開いた黄金時代を迎えていました。しかし同時に、アテネの強大な軍事力と帝国主義的な政策は、他のポリスとの摩擦を生み出し、ギリシャ世界は緊張状態にありました。
ソフォクレス自身も、この激動の時代を政治家、軍人として生きました。彼は紀元前443年から442年にはサムス島の反乱を鎮圧するために将軍の一人として出陣し、また紀元前441年には財務官を務めたという記録が残っています。
アンティゴネの物語と当時の政治状況
『アンティゴネ』の物語は、テーバイの王位継承争いを巡って、国家の法と神の法のどちらに従うべきかという、普遍的なテーマを扱っています。クレオンは、国家の反逆者であるポリュネイケースの埋葬を禁じることで、国家の秩序と自身の権威を示そうとします。一方、アンティゴネは、たとえそれが国家の法に反するとしても、神の法に従い、血縁の情に基づいて兄を埋葬することを決意します。
この対立は、当時のアテネ社会における、民主主義的な法治国家の理念と、伝統的な宗教観や血縁共同体の価値観との間の葛藤を反映していると考えられます。ペリクレスは、市民による政治参加と法の支配を重視する民主政治を推進していましたが、一方で、アテネ社会には依然として、伝統的な宗教観や血縁を重視する価値観が根強く残っていました。
ペリクレスの葬送演説との関連
紀元前431年に勃発したペロポネソス戦争の際、ペリクレスは戦死したアテネ兵の追悼式典で有名な「葬送演説」を行いました。この演説の中で彼は、アテネの民主主義の理念と、法の支配に基づく自由で平等な社会の理想を雄弁に語っています。
興味深いことに、ペリクレスの葬送演説と『アンティゴネ』は、ともに「法」という概念を重要なテーマとしていますが、その捉え方には微妙な違いが見られます。ペリクレスは、市民によって制定された法こそが社会の秩序と正義の基礎であると主張する一方で、アンティゴネは、人間の定めた法を超えた、より高次の正義や倫理の存在を訴えかけているかのようです。