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サルトルの存在と無からの学び

## サルトルの存在と無からの学び

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存在は本質に先立つ

サルトルは、「存在と無」の中で、人間にとって「存在は本質に先立つ」と主張しています。これは、人間は他の物とは異なり、あらかじめ決められた本質を持たずに、この世に投げ出されているということを意味します。机や椅子、ナイフといったものは、あらかじめ「机であること」「椅子であること」「ナイフであること」という本質を持って作られます。しかし、人間にはそのようなあらかじめ決められた本質はなく、まず「存在」することから始まり、その後、自らの選択と行動によって自らの「本質」を創造していく自由と責任を負っているのです。

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自由と責任

人間には、自らの本質を創造する自由がある一方で、その自由には重い責任が伴います。 サルトルは、人間は「自分が選択しないことも含めて、あらゆることに対して責任がある」と述べています。 これは、たとえ自分が望まない状況に置かれていたとしても、その状況に甘んじるか、そこから抜け出すために何か行動を起こすかは、最終的には自分の選択に委ねられているからです。 そして、その選択の結果に対して、私たちは責任を負わなければなりません。

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不安と悪

自由と責任を自覚した人間は、必然的に「不安」に直面します。 なぜなら、私たちは常に有限的な存在であり、未来がどうなるか、自分の選択が正しいのかどうかは、決して確定的に知ることはできないからです。 しかし、サルトルは、この不安こそが、私たちが真に自由であることの証であると述べています。 不安から逃げることなく、それを受け入れることによってのみ、私たちは自らの存在を真に引き受けることができるのです。

また、サルトルは、人間は「悪」を行う可能性も孕んでいると指摘しています。 「悪」とは、他者の自由を否定し、彼らを「物」として扱うことです。 しかし、サルトルは、「悪」を行う可能性があるからといって、人間は本質的に「悪」であると断定することはしていません。 私たちには常に、他者の自由を尊重し、「善」を選択する可能性が残されています。

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実存主義とヒューマニズム

サルトルは、「実存主義はヒューマニズムである」と主張しました。これは、実存主義がしばしば「ニヒリズム」や「絶望の哲学」と誤解されていることに対する反論です。サルトルにとって、実存主義は、人間が自らの自由と責任を自覚し、積極的に人生を創造していくための哲学です。

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