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キケロの弁論術に関連する歴史上の事件

## キケロの弁論術に関連する歴史上の事件

### 1. ウェッレス弾劾事件における弁論術の勝利

紀元前70年、キケロは若き日の名声を高める事件に直面します。それは、シチリア総督ガイウス・ウェッレスの不正蓄財を告発する裁判、いわゆる「ウェッレス弾劾事件」でした。ウェッレスは権力を振りかざし、シチリアの人々から財産を巻き上げていたとされ、民衆の怒りを買っていました。キケロはシチリア側の弁護を引き受け、持ち前の雄弁術を駆使してウェッレスの悪事を暴き出します。

この裁判でキケロは、単なる法律論にとどまらず、感情、道徳、正義といった普遍的な価値観に訴えかけることで陪審員の心を揺さぶりました。彼はウェッレスの残虐行為を克明に描写し、シチリアの人々の苦しみを訴えることで、聴衆に強い印象を与えたのです。結果としてウェッレスは有罪となり、キケロはローマで最も優れた弁論家としての名声を確立することになります。

### 2. カティリーナの陰謀を阻止した「カティリーナ弾劾演説」

紀元前63年、ローマはルキウス・セルギウス・カティリーナ率いる元老院議員による国家転覆計画に直面します。カティリーナは選挙での敗北後、武力による政権奪取を企てていたのです。この陰謀を察知したキケロは、執政官として元老院で「カティリーナ弾劾演説」を行い、カティリーナを告発します。

この演説は、古代ローマ弁論術の最高傑作の一つとされ、キケロの政治家としての力量が遺憾なく発揮されています。彼はカティリーナの過去の悪事を列挙し、陰謀の証拠を突きつけると同時に、ローマ市民の愛国心を煽り、共和制を守るために一致団結することを呼びかけました。その結果、カティリーナはローマから追放され、彼の企みは未然に防がれたのです。

### 3. 政治的混乱の中で放たれた「フィリッピカ」

カエサルの暗殺後、ローマは再び内乱の時代に突入します。カエサルの後継者を自称するマルクス・アントニウスと、共和制の擁護を掲げるオクタウィアヌス(後の初代皇帝アウグストゥス)との対立が激化していったのです。キケロはアントニウスを危険人物とみなし、彼を非難する14篇の演説「フィリッピカ」を元老院で発表しました。

「フィリッピカ」は、マケドニア王ピリッポス2世を攻撃したデモステネスの演説になぞらえたもので、アントニウスの野心を糾弾し、共和制の危機を訴える内容でした。しかし、この演説はアントニウスの怒りを買い、キケロは反逆者として処刑されてしまいます。皮肉なことに、キケロが擁護しようとした共和制は、彼の死後間もなく終焉を迎えることになります.

これらの歴史的事件を通じて、キケロの弁論術は単なる言葉の技巧ではなく、社会を動かす力を持った武器として機能していたことがわかります。彼の演説は、ローマ社会に大きな影響を与え、歴史の流れを左右する場面もあったのです。

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