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カントの実践理性批判の選択

カントの実践理性批判の選択

選択とは何か

カントにとって、選択とは単なる

* **欲求**に基づくものではありません。

食べたいから食べる、眠たいから寝る、といった動物的な欲求に突き動かされて行動を起こすのは、カントの言う選択ではありません。なぜなら、そこには**理性**が介在していないからです。

* **自然的必然性** によって規定されたものでもありません。

太陽が東から昇るのが必然であるように、あらかじめ決定されていることの結果として生じる行動もまた、選択ではありません。選択とは、**自由**な意志に基づいて行われる行為でなければなりません。

では、カントにおける選択とは一体何なのでしょうか? それは、**実践理性** の働きによって規定された、**道徳法則** に従う行為です。

実践理性と道徳法則

カントは、人間には**感覚的な世界の法則**に支配される側面と、**自由な理性の法則** に従う側面があるとしました。前者を **感性** 、後者を **理性** と呼びます。そして、理性の中でも、行為の原理を規定する働きを持つものを **実践理性** と呼びます。

実践理性は、**「汝の意志の格率が、つねに同時に普遍的な立法の原理となるように行為せよ」** という **定言律** を通じて、私たちに語りかけます。

この定言律こそが、カントの言う **道徳法則** です。 そして、道徳法則に従って行為を行うこと、 つまり普遍化可能な原理に基づいて行為を選択することこそが、カントにとっての **選択** なのです。

選択の自由

しかし、私たちは本当に自由な選択が可能なのでしょうか? 現実の世界では、社会規範や個人の欲望など、様々な要因が私たちの行動を制約しています。

カントは、このような疑問に対し、 **現象界** と **物自体** の区別を用いて反論します。

私たちの認識は、時間や空間の制約を受ける **現象界** に限定されています。そして、現象界における私たちの行為は、確かに様々な要因によって規定されています。

しかし、現象界の背後には、時間や空間を超越した **物自体** の世界が存在します。そして、私たちの実践理性の根源もまた、この物自体の世界にあります。

物自体としての私たちは、 **自由な存在** であり、道徳法則に従って行為を選択することができます。 カントは、この自由を **自律** と呼び、人間の尊厳の根拠としました。

ただし、この自律は、私たちが直接経験できるものではありません。私たちが認識できるのは、あくまで現象界における行為だけです。

しかし、カントは、私たちが道徳法則に従いたいという **義務感** を持つことから、自律の存在を間接的に推論できると考えました。

義務感は、私たちの行為を規定する外的要因とは異なる、 **内的な要請** として経験されます。そして、カントは、この義務感こそが、物自体における私たちの自由、すなわち自律の現れだと考えたのです。

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