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カントの判断力批判の周辺

## カントの判断力批判の周辺

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美的判断の独自性

カントの『判断力批判』は、純粋理性批判、実践理性批判に続く、三大批判書の一つとして位置づけられています。 この著作でカントは、人間が持つ判断力、特に美的判断と目的論的判断について考察し、それらが理性と感性、理論理性の領域と実践理性の領域とを媒介する働きを持つことを論じています。

『判断力批判』の中心テーマの一つである美的判断は、対象の美しさや醜さといった美的属性を判断する能力です。 カントは、美的判断は快・不快といった主観的な感覚に基づくものでありながらも、単なる個人的な好みとは異なる普遍性と必然性を備えていると主張しました。

カントによれば、美しいものを見たときに感じる快は、対象が私たちの感覚器官に直接的に働きかけることで生じるのではなく、対象の形式的な秩序や調和が、私たちの認識能力(想像力と悟性)の自由な戯れを引き起こすことで間接的に生じるものです。 この認識能力の自由な戯れは、すべての人に共通するものであり、それゆえ美的判断は、主観的な感覚に基づきながらも普遍性と必然性を持ち得るとカントは考えました。

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目的論的判断と自然の体系

美的判断に加えて、『判断力批判』で重要な役割を果たすのが目的論的判断です。 これは、自然物や生物を、あたかも何らかの目的のために作られたものとして理解しようとする判断です。

例えば、私たちは、鳥の翼は空を飛ぶために、魚のヒレは水中を泳ぐために作られたと考えることがあります。 しかしカントは、自然物や生物が実際に何らかの目的のために作られたと考えることは、人間の理性にとって正当化できないと主張しました。

カントによれば、人間は自然を理解する際に、どうしても目的という概念を用いざるを得ないものの、それはあくまでも人間の認識能力の制約による見方に過ぎません。 ただし、人間が自然を理解する上で目的という概念を用いることは、自然を体系的に理解しようとする人間の理性にとって、必要不可欠なことです。

カントは、目的という概念を用いることで、一見すると無秩序に見える自然も、何らかの統一的な原理に基づいて組織化された体系として理解することが可能になると考えました。 そして、この統一的な原理こそが、神という概念に他なりません。

ただし、カントは、神の存在を証明することはできないと強調しています。 神という概念は、あくまで人間の理性が自然を体系的に理解するために要請する概念であり、その存在を証明することは不可能です。

このように、『判断力批判』は、美的判断と目的論的判断という一見すると異なる二つのテーマを扱いながらも、どちらも人間の認識能力の限界と可能性を探求するという点で共通しています。 そして、この二つのテーマを通じて、カントは理論理性の領域と実践理性の領域とを媒介する判断力の働きを明らかにしようと試みたのです。

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