## カントの判断力批判のメッセージ
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美的判断力について
カントは、美的判断、特に「美しい」という判断は、快・不快といった感覚的なものや、概念に基づく論理的なものではなく、それらの中間にある独自の領域に属すると考えました。美しいものを前にした時、私たちは対象の概念に縛られることなく、対象の形式に「目的適合性」を感じ、「これは美しい」と判断を下します。この目的適合性とは、対象が何らかの目的のために作られたものであるかのように、秩序と調和を備えていることを意味します。しかし、美的判断における目的適合性は、実際の目的や概念とは結びついていません。私たちは、それが何であるか、何のために作られたものであるかを知らずとも、美しいと判断することができるのです。
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崇高の判断について
カントは「美しい」という判断に加え、「崇高」という判断も考察しました。崇高さは、私たちの想像力を超え、感覚に圧倒的な力を及ぼす対象から生じます。広大な自然や、巨大な建造物など、私たちの認識力を超えるような対象は、最初は不快感を伴うものとして知覚されます。しかし、私たちの理性には、それらの対象を概念化し、認識しようとする力、「理性」が備わっています。崇高さは、感覚的な圧倒感と、理性の力によってそれを克服しようとする試みとの間で生じる緊張感から生まれます。
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自然目的について
カントは、自然の産物の中に、あたかも目的を持って作られたかのような、精巧な構造や秩序を見出すことがあります。例えば、生物の複雑な器官や、生態系のバランスなどは、何らかの意図や設計に基づいて存在しているかのようです。しかし、カントは、自然はあくまでも因果律に支配された機械論的なものであると考え、自然自体に目的が存在するとは認めませんでした。では、なぜ私たちは自然の中に目的を見出すのでしょうか。 カントは、私たちが自然を理解しようとするとき、「目的論的判断力」を用いるからだと説明しました。これは、あたかも目的に従って作られたかのように自然を理解しようとする、人間の認識能力の一側面です。自然目的は、自然そのものに存在するのではなく、あくまで人間の認識能力が生み出す「擬制」なのです。
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判断力批判の位置づけ
「純粋理性批判」で認識能力の apriori な構造を、「実践理性批判」で道徳法則の apriori な原理を明らかにしたカントは、「判断力批判」において、自然と自由、理論理性と実践理性の橋渡しを試みました。美的判断や自然目的における目的論的判断力は、感覚的な経験と、理性による概念化との間に位置づけられ、両者を媒介する役割を担います。このように、「判断力批判」は、カント哲学の体系全体において、重要な位置を占めていると言えるでしょう。
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