## カルヴァンのキリスト教綱要の思考の枠組み
神の認識と聖書の権威
カルヴァンは、人間は生まれながらにして神を知る能力を持っているものの、罪によってその能力は損なわれているとしました。彼はこれを「神の感覚」と「被造物の書」という概念で説明しています。自然や良心を通して神の栄光をある程度知ることができる「神の感覚」は、罪によって弱まっているものの完全に消滅したわけではありません。
しかし、人間は罪のために神の真の姿を完全に理解することはできず、「被造物の書」だけでは救いに必要な知識を得ることはできません。そこで必要となるのが「聖書の書」です。聖書は神ご自身が人間に与えられた啓示であり、神の言葉を誤りなく伝えるものとして絶対的な権威を持つとカルヴァンは主張しました。
予定説
カルヴァンは、聖書に基づき、救いは人間の行いではなく、神の無償の恵み、すなわち「予定」によってすでに決定されているという立場をとりました。これは、神が世界の創造の前に、誰を救い、誰を滅ぼすかをすでに決めているという考えです。
カルヴァンは予定説を論じる際、人間の自由意志と神の主権の関係について深く考察しています。彼は、人間の自由意志は罪によって堕落しており、自力で神を選ぶことはできないとしました。一方で、神は全知全能であり、世界のすべてを支配しているとしました。
この一見矛盾する二つの概念を、カルヴァンは「神の不可解な摂理」として説明しました。つまり、人間の理性では神の摂理を完全に理解することはできないが、聖書が神の絶対的な主権と予定を明らかにしていると主張しました。
教会論と聖礼典
カルヴァンは、真の教会は「神の言葉が正しく説かれ、聞かれ、聖礼典がキリストの定められたとおりに執り行われているところ」であると定義しました。彼は、目に見える教会と目に見えない教会を区別し、目に見える教会は真の信者とそうでない者が混在しているが、目に見えない教会はキリストにある真の信者のみで構成されるとしました。
カルヴァンは、聖礼典を「目に見える言葉」とみなし、神の恵みが目に見える形で与えられる手段であるとしました。彼は、洗礼と聖餐の二つを聖礼典として認め、それぞれがキリストの贖罪の死と復活を象徴しているとしました。
洗礼は、罪の赦しと新しい命への参加を象徴し、幼児洗礼も正当なものとされました。聖餐は、パンとぶどう酒によってキリストの体と血にあずかり、キリストと霊的に結ばれる神秘的な行為であるとされました。
キリスト者生活
カルヴァンは、キリスト者は信仰によってのみ義と認められるとしながらも、真の信仰は必ず生活における善行を伴うとしました。彼はこれを「信仰の果実」と呼び、キリスト者は日常生活において神への感謝と愛を示すために努力すべきだとしました。
また、カルヴァンは職業を神から与えられた召命とみなし、それぞれの職業を通して神の栄光を現すべきだとしました。この考え方は、後のプロテスタントの労働倫理に大きな影響を与えました。