Skip to content Skip to footer

オットーの聖なるものが扱う社会問題

オットーの聖なるものが扱う社会問題

合理主義と宗教的体験の対立

ルドルフ・オットーの主著『聖なるもの』は、近代社会における合理主義の台頭がもたらした、宗教的体験の軽視という問題を扱っています。彼は、近代社会が科学的思考や合理性を重視するあまり、人間の精神世界における非合理的、神秘的な側面を軽視する傾向があると批判しました。オットーは、このような傾向が、人間存在の根源的な側面である「聖なるもの」への理解を阻害し、宗教体験の衰退を招くと危惧しました。

聖なるものの概念の風化

オットーは、近代社会において「聖なるもの」という概念自体が風化しつつあることを指摘しました。彼は、聖なるものを、人間の理性や道徳を超越した、畏怖、驚異、魅惑といった感情を呼び起こす神秘的な力、あるいは超越的な存在と定義しました。しかし、近代社会では、宗教が教条化し、形式化していく中で、聖なるものは、倫理的な規範や教義の一部として矮小化され、本来持つ神秘性や超越性を失いつつあるとオットーは考えました。

宗教体験の非言語性と表現の限界

オットーは、聖なるものの本質は、人間の言語や概念では完全に捉えきれないものであると主張しました。彼は、聖なるものとの遭遇は、理性的な理解を超えた、強烈な感情体験であり、それを表現するためには、通常の言語では不十分であると考えました。オットーは、この非言語的な体験を表現するために、「ヌミノーゼ」という言葉を生み出し、畏怖、驚異、魅力、エネルギーといった、相反する感情が混在する複雑な宗教体験を説明しようとしました。

現代社会における宗教のあり方

オットーは、合理主義的な風潮が強まる現代社会において、宗教がその存在意義を維持していくためには、聖なるものの持つ非合理的、神秘的な側面を積極的に取り戻していく必要があると主張しました。彼は、宗教が、倫理や道徳の枠組みに収まらない、人間の根源的な畏怖や驚異の感情に訴えかけることで、人々に深い精神的な充足感を与えることができると考えました。

Amazonで購入する

Leave a comment

0.0/5