## イシグロのわたしを離さないでが扱う社会問題
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臓器移植における倫理
作中のクローンたちは、”保護者”と呼ばれる人々によって、まるで人間のように育てられながらも、その存在意義はあくまで”提供者”として、健康な臓器を提供することにあります。こうした設定は、私たちに臓器移植をめぐる倫理的な問題を突きつけます。
技術の進歩により、臓器移植は多くの命を救うことができるようになりました。しかし、その一方で、ドナー不足という深刻な問題も抱えています。作中のようなクローン人間を作り出すことは、倫理的に許されるのでしょうか。たとえ、それが多くの命を救うためであったとしても、倫理的に問題がないと言えるのでしょうか。
イシグロは、クローン人間という極端な設定を用いることで、臓器移植における倫理問題を私たちに突きつけ、深く考えさせています。
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人間の尊厳とは何か
クローン人間たちは、”提供者”となるために生まれてきた存在であり、その運命を受け入れることしかできません。
作中では、キャシー、トミー、ルースといったクローンたちが、限られた時間の中で、恋をしたり、友情を育んだり、希望を抱いたりしながらも、抗うことのできない運命に翻弄されていきます。
クローン人間は人間と全く同じように感情を持ち、考え、苦しみながらも、”人間”として扱われません。
イシグロは、彼らクローン人間たちの姿を通して、「人間らしさとは何か」「人間の尊厳とは何か」を問いかけています。
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社会における差別と偏見
作中のクローン人間たちは、”人間”とは異なる存在として差別され、隔離された場所で生活することを余儀なくされています。
クローン人間たちは、”保護者”や”先生”と呼ばれる、”人間”からの教育を通して、自分たちが”人間”とは異なる存在であること、自分たちが社会から疎外され、差別されている現実を教え込まれます。
このようなクローン人間に対する態度は、現実社会における差別や偏見に通じるものがあります。
イシグロは、私たちが、知らず知らずのうちに、特定の人々を差別し、偏見を持っていないかを問いかけます。
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愛と喪失、そして記憶
作中では、キャシー、トミー、ルースの三人の間で育まれる愛と友情が描かれています。しかし、クローン人間である彼らの運命は過酷であり、永遠の愛や友情を育むことはできません。
クローン人間たちは、愛する人を次々と”提供”によって失い、自らの死も受け入れなければなりません。彼らが”人間”と同じように、愛する喜び、失う悲しみ、死への恐怖を感じながらも、抗うことのできない運命を受け入れなければならない姿は、愛と喪失、そして記憶といった普遍的なテーマを私たちに突きつけます。