—の宇津保物語が書かれた時代背景
宇津保物語が書かれた時代は、平安時代中期(10世紀)にあたります。この時代、日本の文化は華やかな発展を遂げ、特に都では貴族社会の中心である京都(当時は平安京)が文学や芸術の中心地として栄えていました。宇津保物語を含む物語文学は、この時代の文化的背景の中で特に隆盛を見せていました。しかし、この時代の読書という行為の位置づけを理解するためには、他のメディアとの比較を考慮する必要があります。
当時のメディアと読書の位置づけ
この時期、日本における「メディア」と言えるものは限られており、主に物語文学、和歌、絵画、書道などが文化的な表現手段として用いられていました。和歌は貴族社会の中で非常に重要なコミュニケーション手段であり、社会的地位や教養を示すものとして用いられていました。一方、物語文学は当時の貴族社会の日常生活や恋愛、政治的な駆け引きを描いたもので、特に女性の間で人気がありました。
読書は、この時代において非常に限られた層、つまり貴族や寺院に関わる人々によってのみ行われる活動でした。一般庶民には文盲が普通であり、また書物も手写本が主流であり非常に高価であったため、広く行われることはありませんでした。したがって、読書は特権的な活動と位置づけられ、教養を示す象徴とされていました。
読書の社会的意義
読書は、この時代の貴族社会においては、個人の教養を高め、社会的地位や洗練された趣味を示す手段として重要視されていました。物語や和歌の内容を理解し、鑑賞する能力は、貴族たちの間で高く評価される知的な活動でした。また、文学作品を読むことは、作者の感情や思想を理解し、共感することを通じて、個人の感受性や情緒を豊かにするとも考えられていました。
さらに、読書は社会的な交流の場としても機能していました。例えば、和歌の読み合わせや物語の朗読会は、貴族たちが集まり、互いの教養を競い合うとともに、社交の場としても利用されました。このように、読書は単に情報を得るための行為ではなく、教養や趣味を示し、社会的な交流を深めるための重要な活動だったのです。
この時代、他のメディアと比較しても、読書は文化的、社会的に非常に重要な位置を占めていました。物語文学や和歌は、当時の貴族社会の価値観や美意識を反映しており、それらを鑑賞し理解することは、当時の最高の教養とされていたのです。