## ルターのキリスト者の自由の話法
###
弁証法を用いた論述
ルターは「キリスト者の自由」において、弁証法的な論述を用いて、キリスト者における自由と愛の関係を明らかにしています。
彼はまず、一見矛盾するように見える二つの命題を提示します。
* **「キリスト者はあらゆるものに自由であり、何者にも拘束されない」**
* **「キリスト者はあらゆるものに仕え、何者にも服従する」**
これらの命題は、文脈を無視して解釈すれば、互いに矛盾するように見えます。しかしルターは、これらの命題を、キリスト者における内面的な人間と外面的な人間という二つの側面から解釈することで、両立しうると主張します。
###
信仰による義認と自由
ルターは、人間の救済は、行為によるものではなく、キリストへの信仰によってのみもたらされると主張します。
ルターによれば、人間は生まれながらにして罪深く、自らの力では神の義に達することができません。しかし、キリストを信じる信仰を通して、人間は神の義を賜り、罪から解放されます。これが「信仰による義認」と呼ばれるルター神学の中心教義です。
ルターはこの信仰による義認を根拠に、キリスト者は「あらゆるものに自由であり、何者にも拘束されない」と主張します。
なぜなら、キリスト者の内面、すなわち魂は、すでにキリストの贖いによって完全に自由になっているからです。
###
愛による奉仕と服従
一方で、ルターはキリスト者が「あらゆるものに仕え、何者にも服従する」存在であることも強調します。
ルターによれば、信仰によって自由になったキリスト者は、もはや自分のためだけに生きるのではなく、愛をもって隣人に仕えるために生きるようになります。
これは、キリストの愛が、キリスト者を隣人への奉仕へと駆り立てるからです。
ルターは、この愛による隣人への奉仕こそが、真の自由の表現であると主張します。
なぜなら、それは自分のためではなく、他者のために自発的に行われるからです。