## ミルトンの失楽園の対極
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楽園の回復と人間精神の勝利:ゲーテ「ファウスト」
ジョン・ミルトンの叙事詩「失楽園」は、アダムとイブの堕罪、楽園からの追放というキリスト教の原罪の物語を壮大なスケールで描き出し、人間の弱さと罪深さを容赦なく突きつけます。一方、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの戯曲「ファウスト」は、人間の飽くなき探求心と、その果てに待つ救済の可能性を提示し、「失楽園」とは対照的な視点を提示します。
「失楽園」が神の絶対的な権威と、それに逆らうことの罪深さを強調するのに対し、「ファウスト」は、人間の限界を超越しようとする努力、たとえそれが禁断された知識を求めることであっても、一定の理解を示します。ファウストは悪魔メフィストフェレスと契約し、現世的な快楽と引き換えに魂を差し出す道を選びますが、それは決して単純な悪への堕落ではありません。
知識と経験を求めるファウストの渇望は、人間精神の持つ無限の可能性を象徴しており、彼の物語は、絶え間ない努力と自己超克を通して、人間は自らの限界を超え、より高次な存在へと至ることができるという希望を提示します。
「失楽園」では、楽園からの追放が物語の終焉を告げますが、「ファウスト」は、絶え間ない努力と神の恩寵を通して、人間は再び楽園、あるいはそれ以上の境地に到達できる可能性を示唆します。これは、人間の罪深さを強調する「失楽園」とは全く異なる、人間精神に対する肯定的な視点を提示するものです。
このように、「失楽園」と「ファウスト」は、人間の存在意義、善と悪、楽園と堕落といった普遍的なテーマを扱いながらも、その解釈と結論においては対照的な立場をとっています。