## ミルトンの『失楽園』の思索
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神の摂理と自由意志
『失楽園』において、ミルトンは神の全能性と人間の自由意志の関係について深く考察しています。神は全知全能でありながら、なぜ人間に禁断の果実を食べる自由を与えたのか。これは、真の従順は自由意志に基づく選択によってのみ可能になるというミルトンの信念を反映しています。アダムとイブは、神に従うか、自らの欲望に従うかを選択する自由を与えられました。彼らの選択は、彼ら自身の責任においてなされたものであり、その結果もまた、彼ら自身が負うべきものでした。
ミルトンは、神の摂理は人間の自由意志を制限するものではなく、むしろそれを包含するものであると示唆しています。神はアダムとイブの堕落をあらかじめ知っていましたが、それを妨げることはしませんでした。なぜなら、それは彼らの自由意志の行使の結果だったからです。しかし、神は彼らの堕落の後も、彼らを完全に見捨てることはせず、救済の道を用意しました。
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善と悪、罪と罰
『失楽園』は、善と悪、罪と罰という普遍的なテーマを探求しています。サタンに誘惑されたアダムとイブは、禁断の果実を食べるという罪を犯し、楽園から追放されます。この罪は、単なる神の命令への違反ではなく、知識と経験への欲求、自己中心的で神に取って代わろうとする欲望といった、人間の心の奥底にある弱さを象徴しています。
ミルトンは、罪の結果として生じる苦しみと喪失を克明に描写することで、罪の深刻さを浮き彫りにしています。アダムとイブは、楽園の安らぎと神の恵みを失い、苦難と死の運命を背負うことになります。しかし、ミルトンは、罪と罰は単なる懲罰ではなく、人間が自らの過ちから学び、成長するための機会であるとも示唆しています。
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贖罪と希望
『失楽園』は、絶望的な物語ではありません。ミルトンは、アダムとイブの堕落を通して、人間の弱さと罪深さを描き出す一方で、贖罪と希望の可能性も提示しています。アダムとイブは、自分たちの罪を悔い改め、神の慈悲を請い求めます。そして、神は彼らを見捨てず、将来における救済の約束を与えます。
この救済の約束は、キリストの到来によって実現されます。ミルトンは、『失楽園』の中で、キリストを「最後のアダム」として描き、人間の罪を償うために、自ら犠牲となる存在としています。キリストの犠牲によって、人類は罪と死の束縛から解放され、再び神との和解へと導かれるのです。