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フッサールの純粋現象学および現象学的哲学の諸問題の対極

## フッサールの純粋現象学および現象学的哲学の諸問題の対極

フッサールの現象学に対置しうる明確な「対極」となる単一の書物を断定することは困難です。

これは、フッサールの思想が非常に多岐にわたり、多くの哲学者に影響を与え、また批判も受けてきたためです。

しかし、あえて「対極」となりうる歴史的名著を挙げるならば、以下の二つが考えられます。

1. ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン著 「論理哲学論考」 (1921)

初期ヴィトゲンシュタインは、言語の限界と意味の明確化を通して哲学的問題を解消できると考えました。これは、意識の構造を記述することで哲学の基礎を築こうとするフッサールの試みとは根本的に異なるアプローチです。

「論理哲学論考」では、世界は事実の総体であり、言語は世界を写し取るための道具であるとされます。 意味のある命題は、事実と論理的に結びつくものであり、それ以外の形而上学的な言説は「無意味」であると断じられます。

フッサールは、意識の構造を分析することで、客観的な世界の認識の根拠を明らかにしようとしました。 一方、ヴィトゲンシュタインは、言語の論理構造を分析することで、哲学的問題そのものを解消しようとしました。 このように、両者は哲学の根本的な問題設定において対照的な立場を取っています。

2. マルティン・ハイデガー著 「存在と時間」 (1927)

ハイデガーは、フッサールの弟子でしたが、後に根本的な立場の違いから袂を分かちます。 フッサールは、意識の超越論的構造を分析することで、客観的な世界認識の基礎づけを目指しましたが、ハイデガーは、人間存在の根本的なあり方である「現存在」の分析を出発点としました。

「存在と時間」では、人間は世界の中に「投げ込まれた存在」であり、常に「死」の可能性と直面している存在であるとされます。 このような現存在の分析から、ハイデガーは、伝統的な形而上学が「存在」の意味を忘却してきたと批判し、「存在」の問いを新たに問い直そうとします。

ハイデガーもフッサールと同様に、現象学的な方法を用いていますが、その対象と目的は大きく異なります。 フッサールが客観的な世界の認識の基礎づけを目指したのに対し、ハイデガーは人間存在の根本的な意味を問い直すことを目指しました。

これらの著作は、フッサールの現象学とは異なる視点から哲学の根本問題に取り組んでおり、「対極」として位置付けることができるでしょう。 しかし、これらの著作がフッサールの思想と全く無関係であるわけではなく、むしろフッサールの問題意識を継承しつつ、独自の展開を試みたものとも言えるでしょう。

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