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バタイユの呪われた部分からの学び

## バタイユの呪われた部分からの学び

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非生産的な支出と過剰性の重要性

バタイユは、近代社会においては、生産性や有用性といった価値観が支配的となり、人間活動のすべてが利益追求や効率化といった合理的な視点から評価されるようになっていると批判しました。そして、このような合理主義的な思考では捉えきれない、人間存在の根底にある過剰なエネルギーや衝動、「呪われた部分」の存在を明らかにしようと試みました。

バタイユによれば、人間は、生命活動の維持に必要な量を超えた過剰なエネルギーを持っています。この過剰なエネルギーは、労働や消費といった生産的な活動に向けられることもありますが、祭祀や芸術、あるいは戦争や破壊といった、一見非合理的で無駄とも思えるような「非生産的な支出」の形態をとって放出されることもあります。

バタイユは、このような非生産的な支出こそが、人間存在の本質的な側面であると主張しました。なぜなら、それは、私たちを規定している合理的な秩序や枠組みを超え出て、生の根源的なエネルギーを解放する行為だからです。非生産的な支出を通して、私たちは、有限な個体としての自己を超越し、無限の全体性と一体化することができるとバタイユは考えました。

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エロティシズムと死の結びつき

バタイユは、エロティシズムと死を、人間存在の過剰性を示す二つの重要な概念として結びつけました。彼にとって、エロティシズムは単なる生殖行為ではなく、個体としての自己の限界を超越する体験、すなわち「小死」を意味します。性的な興奮の極限において、私たちは、自己の連続性を喪失し、生の根源的なエネルギーと一体化します。

また、バタイユは、死を、私たちを規定している個体性や合理性の原則を根底から覆すものとして捉えました。死は、私たちがコントロールできない、絶対的な他者性であり、私たちを有限な存在として規定するものです。しかし同時に、死は、私たちを個体としての自己の限界から解放し、無限の全体性へと回帰させるものでもあります。

このように、エロティシズムと死は、ともに、私たちを規定している合理的な秩序や枠組みを超え出て、生の根源的なエネルギーに触れさせるという点で共通しています。バタイユは、これらの経験を通して、私たちは、近代社会において抑圧されてきた、人間存在の過剰性や非合理性といった側面を回復することができると考えました。

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社会への批判

バタイユは、近代資本主義社会が、人間の過剰なエネルギーを抑制し、すべてを生産性や有用性の論理に従属させようとする点に批判的でした。彼は、このような社会では、人間の非合理的な側面が抑圧され、真の自由や解放が失われてしまうと危惧していました。

バタイユは、近代社会の限界を超えるためには、人間の過剰なエネルギーを解放し、非生産的な支出を積極的に行うことが必要であると主張しました。それは、必ずしも破壊や浪費を推奨するものではありません。バタイユは、芸術や祭祀、あるいは贈与といった、共同体におけるつながりや一体感を生み出すような非生産的な支出の可能性にも目を向けていました。

バタイユの思想は、現代社会においても重要な示唆を与えてくれます。私たちもまた、過剰な情報や物質に囲まれ、常に生産性や効率性を求められるような社会に生きています。バタイユの思想は、このような社会において、人間の存在の本質的な側面である過剰性や非合理性に目を向け、真の自由や解放を追求することの重要性を改めて問いかけるものと言えるでしょう。

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