## バタイユのニーチェについてからの学び
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主体の転覆
バタイユは、ニーチェが西洋哲学の伝統的な主体概念を破壊したと主張しています。 デカルト以来、西洋哲学は「我思う、ゆえに我あり」というように、意識的で理性的な自我を思考の中心とみなしてきました。しかし、ニーチェはこのような自我中心主義的な見方を批判し、人間存在の根底には、理性では捉えきれない、混沌とした力強い生の衝動「力への意志」があると主張しました。
バタイユは、ニーチェのこの考え方を高く評価し、彼自身もまた、理性的な主体という概念を超えて、人間の根源的な生のあり方を追求しようとしました。バタイユは、人間存在は、理性や秩序によって完全に制御できるものではなく、常に過剰なもの、逸脱したもの、不条理なものに開かれていると主張しました。
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神なき世界における生の肯定
ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、西洋文明の基盤となってきたキリスト教的な価値観の崩壊を予言しました。 バタイユは、ニーチェのこの洞察を共有し、神なき世界における人間の生の意味を問い直しました。
伝統的な価値観が失われた世界において、人間は虚無主義に陥る危険性があります。 しかし、バタイユはニーチェを読み解く中で、虚無主義を乗り越え、新しい生の肯定へと至る可能性を見出しました。それは、有限な存在であることを自覚した上で、瞬間瞬間の生の強度を最大限に生きること、過剰なもの、限界を超えたものに開かれていくことであり、バタイユはこれを「生の支出」と呼びました。