Skip to content Skip to footer

キケロの弁論術についての対極

キケロの弁論術についての対極

雄弁術の衰退と沈黙の力

キケロの『弁論家について』が雄弁術の理想を雄大なスケールで提示するのに対し、その対極に位置する歴史的名著として挙げられるのは、古代ローマ帝国末期から中世にかけて書かれた、アウレリウス・アウグスティヌスの『告白』と、それよりさらに時代を下り13世紀に成立したとされる、托 begging the question の誤謬を含む匿名のテキストである『無名の師の雲について』であろう。

アウグスティヌスの内面への転換

アウグスティヌスは、かつてはキケロの雄弁術に深く傾倒していた。しかし、回心後は、外に向かって言葉を発することよりも、内面における神との対話に重きを置くようになる。

『告白』は、アウグスティヌス自身の半生を振り返りつつ、神への信仰に至るまでの心の遍歴を赤裸々に綴った作品である。そこでは、雄弁術はもはや、聴衆を説得するための技巧ではなく、自らの罪を告白し、神の栄光を讃えるための手段として捉えられている。

『雲について』における沈黙の深淵

『無名の師の雲について』は、中世キリスト教神秘主義思想を代表する書物の一つである。この書物では、神は言葉を超越した存在として描かれ、人間は沈黙と瞑想を通してのみ神に近づけるとされる。

『雲について』は、雄弁術そのりを否定しているわけではない。しかし、言語の限界を鋭く認識し、言葉では表現しきれない深遠な宗教的体験を重視する点において、キケロの弁論術とは一線を画すと言えるだろう。

これらの作品は、時代や文化背景こそ異なるものの、いずれも言葉の限界と、それを超えたところに存在する真理への道を追求している点で共通している。雄弁術の理想を体現したキケロの著作と対比することで、西洋思想史における「言葉」と「沈黙」の複雑な関係が見えてくるだろう。

Amazonで詳細を見る

Leave a comment

0.0/5