## キケロの友情にまつわる歴史上の出来事
### **政治的混乱における友情:ポンペイとの複雑な関係**
マルクス・トゥッリウス・キケロの人生とキャリアは、ローマ共和国末期の政治的混乱と激動の時代と切り離せないものでした。こうした激動の時代において、友情は単なる個人的な問題ではなく、政治的生存と安定にも影響を与える重要なものでした。キケロの最も重要な関係の中で、グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(ポンペイ大王として知られる)との複雑な友情は、その時代の複雑さと友情が果たした役割を浮き彫りにしています。
キケロとポンペイの関係は、相互の敬意、実際的な政治的計算、そして真の愛情の要素を特徴とするものでした。二人は共にノウェレス・ホミネスの理想を共有していました。ノウェレス・ホミネスとは、出自にかかわらず、その能力とメリットに基づいて政治指導力を発揮すべきだと信じる新興階級のことです。ポンペイが軍事および政治の舞台で台頭したとき、キケロは彼を共和制の潜在的な保護者と見なし、その影響力を通して自分の政治的目的を前進させることを期待していました。
彼らの友情は紀元前63年に試練に立たされました。キケロは執政官を務め、カティリーナの陰謀として知られるクーデター計画を阻止しました。ポンペイの政敵であるルキウス・セルギウス・カティリーナが首謀したこの陰謀は、ローマを不安定化させ、権力を掌握することを目的としていました。キケロは断固たる行動を取り、陰謀への関与を疑われた人物を裁判なしに処刑しました。この措置は物議を醸し出し、後のキケロの人生に影響を与えることになります。
カティリーナの陰謀の後、ポンペイは共和制における最も強力な人物として台頭しました。キケロはポンペイに接近し、彼を潜在的な脅威と見なすのではなく、共和制の守護者として見なすことを期待していました。ポンペイとマルクス・リキニウス・クラッスス、ガイウス・ユリウス・カエサルが形成した第一次三頭政治として知られる強力な同盟にもかかわらず、キケロはポンペイとの友情を維持し、政治的指導力を期待していました。
しかし、キケロとポンペイの関係は緊張状態が続いていました。キケロはポンペイの野望と共和制の伝統を損なう可能性のある権力掌握への欲求を懸念していました。ポンペイがカエサルとの同盟を深め、キケロに敵対したため、彼らの友情はさらに複雑になりました。
### **追放と帰還:友情の真価**
キケロの友情の真価が試されたのは、紀元前58年の追放でした。陰謀への関与が疑われた人物を処刑したことに対する報復として、キケロはローマから逃亡することを余儀なくされました。追放はキケロにとってトラウマ的な経験となり、政治的キャリアは崩壊し、個人的な生活は混乱に陥りました。
追放の間、キケロは友人の支援に大きく依存していました。ポンペイを含む一部の友人は彼を見捨てましたが、他の人々は揺るぎない忠誠心を示しました。特に注目すべきは、キケロの義理の兄弟であり親友であるティトゥス・ポンポニウス・アティクスです。アティクスはキケロに経済的および感情的な支援を提供し、彼の帰還のために精力的に活動しました。
アティクスに加えて、キケロの追放中の友人には、歴史家ティトゥス・リウィウス、政治家マルクス・ユニウス・ブルトゥス、哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカなどがいました。これらの友人はキケロに慰め、励まし、実用的な支援を提供し、彼が困難な時期を乗り越えられるようにしました。キケロの追放と帰還は、友人を持つことの重要性、特に逆境の時代における重要性を示すものでした。真の友人は、影響力や政治的幸運のために友情を提供するのではなく、揺るぎない支援と忠誠心を提供しました。
### **共和制の危機:友情と政治的分割**
キケロがローマに帰還した後、彼は共和制が崩壊へと向かっていることに気づきました。カエサル、ポンペイ、クラッススの間の三頭政治は崩壊し、ローマは内戦に突入していました。この危機の間、キケロの友情は政治的分裂と忠誠心の対立によって試練に立たされました。
キケロは当初、ポンペイとカエサルの間の対立において中立の立場をとろうとしました。しかし、彼は最終的にポンペイを共和制の最後の希望と見なし、彼の陣営に加わることを選択しました。この決定はキケロにとって困難なものでした。なぜなら、彼は依然としてカエサルに個人的な愛情を抱いていたからです。
紀元前48年、カエサルがファルサルスの戦いでポンペイに勝利したとき、キケロは困難な立場に置かれました。彼は恩赦を与えられましたが、それでもポンペイを支持したことに対してカエサルに不信感を抱いていました。カエサルの暗殺後、キケロは共和制を復活させることを期待して、マルクス・ユニウス・ブルトゥスとガイウス・カッシウス・ロンギヌスの陣営に加わりました。
しかし、キケロの希望は短命に終わりました。紀元前42年にフィリッピの戦いで、ブルトゥスとカッシウスはマルクス・アントニウスとオクタヴィアヌス(後のアウグストゥス帝)率いる第二回三頭政治に敗れました。キケロは政敵のリストに載せられ、紀元前43年に処刑されました。
キケロの人生とキャリアにおける友情の役割は、過大評価することはできません。彼の友情は政治的支援、知的刺激、感情的な慰めを提供しました。しかし、共和制の激動の時代において、彼の友情はまた、政治的混乱と個人的なジレンマによっても試練に立たされました。キケロのポンペイとの複雑な関係から、追放中の友人の揺るぎない支援、共和制の危機における政治的分裂まで、彼の経験はローマの歴史におけるこの激動の時代に友情が果たした多面的でしばしば矛盾した役割を浮き彫りにしています。