カッシーラーのシンボル形式の哲学を読んだ後に読むべき本
メルロ=ポンティ『知覚の現象学』
カッシーラーの『シンボル形式の哲学』を読み終えた後、次に探求すべき興味深い道筋は、モーリス・メルロ=ポンティの『知覚の現象学』へと続くでしょう。カッシーラーが人間を「シンボルを形成する動物」として捉え、言語、神話、芸術など多様なシンボル形式を通じて世界を理解し構築していく過程を探求したのに対し、メルロ=ポンティは、人間の身体性と知覚経験に焦点を当て、世界と私たちの根源的な関わりを明らかにしようと試みました。
カッシーラーは、カントの認識論を発展させ、人間の理性は受動的に外界を認識するのではなく、能動的にシンボル形式を用いて世界を構成していくと主張しました。彼は、多様なシンボル形式を分析することで、人間の文化的活動の基盤を明らかにしようと試みたのです。
一方、メルロ=ポンティは、デカルト的な心身二元論を批判し、身体を「意識の器」としてではなく、「世界内存在」としての基盤として捉え直しました。彼は、「私は見るゆえに世界が存在するのではなく、私が世界に生きているからこそ、私は見て感じることができるのだ」と述べ、世界と身体との相互的な関係性を強調しました。
『知覚の現象学』では、メルロ=ポンティは、絵画、音楽、言語などを題材に、知覚経験がどのようにして世界との意味を構成していくのかを詳細に分析しています。彼は、知覚は単なる感覚データの受容ではなく、身体運動や過去の経験、文化的背景などが複雑に絡み合った動的なプロセスであると主張します。
カッシーラーのシンボル形式の哲学を読んだ後、『知覚の現象学』を読むことは、人間の認識と文化、そして世界との関わりについて、より深く、そして身体的な次元から考察を深める契機になるでしょう。カッシーラーが人間の精神の働きに焦点を当てたのに対し、メルロ=ポンティは、身体を通して世界を経験するという、より根源的な次元から人間の存在様式を明らかにしようと試みました。
両者の哲学は、一見対照的なようにも見えますが、人間の文化や認識の根底にあるものを探求するという点で、共通の課題意識を共有しています。カッシーラーとメルロ=ポンティの両者の著作を読むことで、私たちは人間と世界、文化と身体の関係について、より多面的かつ深遠な理解を得ることができるでしょう。